マジョリティーとマイノリティー

わたしの生まれた国では男女差別が割とある。

と思う。

はっきりと「ある」と言えない程度に、ある。

学校の中では少なくとも「ない」である。

そしてそこを卒業するときには、就職活動の場で、まだイコールであることが認められる。そして働きはじめて少しすると、お茶汲みをする男子はほとんどみかけられない。さらに、10年程すると、半分くらいの女子が仕事を変えるまたはやめるなどして結婚、出産に備える。20年すると、キャリア重視で結婚しなかった女子と子供を早めに生んで戻って来た組とに分かれる。30年−40年すると、会社の中ではほとんど女子は管理職には見当たらない。1割程度だろうか。彼女たちは自分で自らのポリシーを持って周りや家族とうまくやっていきながら、子供の面倒も見ながら、そしてキャリアを積み重ねてきたのだろう。彼女たちのいくらかは、自分で会社を立ち上げて、そういう社会をつくりあげてきた先駆者である。そして、そんな会社は社会にとって新鮮で、決まって必要なユニークな存在である。世の中の半分は女子。その社会を動かしていくシステムの半分に女性がいなくてどうして偏りのない決断が下せようか。

 

ところで、ダンサーでいるためには男も女も関係ない。しかしバレーのクラスに行くと、圧倒的に女子の比率が高い。だいたい、1−2割くらいのメンズダンサーがいれば多い方である。そこで、オーディションを受ける場合を考えてみる。バレーのレパートリーは多くが女子ダンサーで構成されているため、メンズの役割は少ない。が、やっぱりここロンドンでダンサーとして職を得るためにはかなりコンペティティブなので、同じくらいのレベルで踊っているダンサーたちを見ると男の子の方が すっ と職を得ていく場合がある。ポジションの割合を見ると同じくらいの競争率になりそうなものであるが、例えばひとつのダンスカンパニーが1度に募集するポジションとして、ダンサー女4名、男1−2名に対して、女子が120名、男子が12名とか来たりする。そうすると、女子ダンサーの競争率は1/30、男子ダンサーの競争率は1/6となり、同じレベルで踊っているすばらしいカップルのダンサーの内、女の子の方はレストランやモデルとしての仕事の傍らこのように→

 

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日々のオープクラスでのレッスンを続け、次のオーディションの機会に備え、男の子は日々のカンパニーでのレッスンに加えて来れるときに朝のクラスを受けにくる。という構図で同じクラスにいろいろな人が集まっている。

 

いずれにしても、世の中のマジョリティーの中にいてはどうしても物事が透明に見えてこない/前に進めない。生まれ育った環境で「これが正しい」ということは家族→学校→会社の中で過ごすうちに、そうでないかもしれないと思うことがあっても、同時に周囲の状況(=家族/学校/会社)によって上書きされながら修正されていくからである。

 

何かに気づいたとき、 すっ と世の中が変わって見えるときがある。マイノリティーとマジョリティー、しっくりくる構成、「すっ」に出会えるために、いまの自分に必要なのは、勇気だろうか、時間だろうか、それともLuckなのだろうか。